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セレンディピティ

セレンディピティ

倭人興亡史

シュメール.JPG

BC1万1000年前~BC9300年前、パレスチナを中心に、ナトゥフ人が支配していた広域ネット・ワ-クの内部で農業が始まり、オアシスのエリコに人口数千人の規模の集落が誕生しました。

なんらかの事情で、それまで広域ネット・ワ-クに守られていたエリコが自衛する必要が生じ城壁をつくりました。エリコの城壁は、BC8000年頃からBC7000年頃まで約1000年間ジェリコを守りました。その間、城壁はだんだん強化されていますが、それは外敵の力が強くなっていったことを示しています。この間、エリコの住人が利用した武器は石器製あるいは木製のものだったと考えられます。やがてジェリコは、BC7000年頃滅びます。

その後長い間、マクロ的にみて城壁を持ったジェリコ的人間集落は現れています。そのことから、ジェリコ時代は有効だった「城壁プラス石器や木製の武器」の防衛力が失われたと推理します。ジェリコの次の時代の中心的人間集落、チャタルフュイックは城壁を持っていないから、再び広域ネット・ワ-クで安全が守られていたと推定しうる。この段階の広域ネット・ワ-クは移動性の高い農業技術を持っていたと考えられます。

なんらかの事情で、アナトリアのチャタルフュイックから北メソポタミアにネット・ワ-クの中心が移動します。時代は原ハスナ期からハスナ期に入る。さらにサマラ期へと移行しますが、その間BC6000年頃までに人間は高温の技術を発明したと考えられます。その証は、この時代以降火で焼いた土器が出土することにあります。高温の技術はやがて銅の加工に応用されるようになりました。

高温の技術による銅加工技術を習得した人々は、自然銅を拾い集めるようになりました。銅の有用性に気付いてから鉱石から銅を生産する技術を発明するまでには、1000年近い年月が経過したと考えられます。それ故、その間に自然銅を拾い集める人々は我々が思いもよらないほど遠方、例えばシベリアやイギリスまでも足を伸ばした可能性があります。この間、BC6000年頃に大異変が起き、サマラ期はハラフ期に取って代わられるが、ハラフ期の人々はアナトリア系に滅ぼされたジェリコに代表されるパレスチナ系の可能性が高く、またサマラ期の一部は南へ逃れてウバイド期として再生した可能性が高い。

一時閉塞していたウバイド期は、その後順調に発展、BC4300年頃にはウルク期へと移り変わっていきます。そしてBC4000年頃から、都市が興隆し始めます。BC3400年頃からBC2900年頃までの原文字期には、文字記号を初めすべての文明の要素が出現して歴史時代に入ります。

第一は、BC6000年頃高温の技術が発明され銅を扱えるようになったこと。

第二に、BC4000年以降メソポタミアが都市国家の時代に入ることです。

とくに、都市あるいは都市国家が出現した歴史的意義は重要です。
そのことが、ロジックの上で、人間社会がようやく、石器や木製の武器に代わる有効な武器をようやく発明したことを強く示唆しているからです。

その武器が青銅製であったことは疑う余地がありません。

だとすればBC4000年頃には、すでにある程度の量の銅あるいは錫がメソポタミアに集積されていたことは確実。

そして、それら集積された銅や錫はBC6000年頃から約2000年間かかって世界の各地から集められたものであったことも間違いない。

この2000年間の最初の頃は、もっぱら自然銅を集めにどんどん遠方まで出かけていった時期です。多分、世界の要所々々には、拾った自然銅を持ち帰るル-トの安全を期するためのデポがつくられていたでしょう。

その過程で、その広域ネット・ワ-クのどこかで、鉱石から銅を取り出す冶金技術が生まれました。

BC4000年頃シベリアで錫を採取していた人々は、メソポタミア系のウル人だったでう。

シュメール人(アフリカの黒人フツリ人から生まれた)=エラモ・ドラヴィダ人とアナトリア民族(エラム人)

ウンマのルーガルザグギシは、

中国の『史記』では約4350年前に黄帝(サルゴン)と戦って敗れたシユウにあたります。


ウンマ・ウルク・ウルというのは、バビロン第二王朝(海の国)をたてた

カルデア人でエラモ・ドラヴィダ系の海人でした。

その後、彼らはナイルに侵入し、約5000年前にはエジプト古王朝を築きました。

これよりファラオ(王)の権力が強大となり、4650年前から100年間、ギゼーの

大ピラミッドをはじめ多くのピラミッドがつくられるようになりました。

この頃、古代エジプトの象形文字であるヒエログリフや太陽暦が使用され始めました。

同じ頃、地中海の東、レバノン山脈の沿岸地帯に海人族のエブス人(プロと・フェニキア人)

が住み着き、レバノン杉(造船材)の原産地付近をアルワド(旧い港)として、港南都市を

形成していました。エブス人は、エジプトのファラオに雇われて、ピラミッド造りに

必要な奴隷や資材を運んでいましたが、これがタルシシ船団へと成長しました。

タルシシ船は、釘を使わず、嵌め込みと紐によって結合させた複合船で

解体して陸地を運び、海辺で組み立てて出港するという奇跡的な

”山を越える船”でした。 

やがて、タルシシ船の各船団は地中海、アラビア海、インド洋、

アセアン海域(インドネシアの島々)を制覇し、後には大西洋を越えてアメリカ大陸

へ到達し、奴隷貿易を行うようになりました。インド亜大陸の西部にインダス文明が

起こったのもこの頃であり、その起源を証明するような遺跡が、2000年になって

発見されました。

エブス人は、約1万5000年前にセレベス島のマカッサル周辺において、ヒクソス人の

系統から生まれました。彼らはプロト(原)・フェニキア人(海人族)とも呼ぶべき人種

でした。ビュルム氷期の終末期に起こった大洪水の時、彼らは、いち早くシュメール人

の王族(ナーガ族)たちを「ノアの方舟」に乗せて脱出し、東南アジアへ運びました。

また、この後、セレベス島から苗族を脱出させていますが、これらの船の主な漕ぎ手は

ドラヴィダ人やフツリ人でした。後のパレスチナのカナ-ン人もプロト・フェニキア人と

呼ぶべき海人族の仲間でした。

 



BC2800年の大洪水のあと、ユーフラテス上流でキシュが覇権を握り、その後

BC2675年、アッカドが即位し、ウルクのギルガメッシュに敗北するところから始まる。

BC2600年頃、ウルクはウル王朝と交代し、この後再びウルクが覇権を得る。その後

BC2340年頃、ウンマのルーガルザギシは、キシュの王ウルザババの宰酒長で

あったサルゴンを使嗾して王を倒させ、その結果サルゴンはキシュの王となる。

サルゴンはウルク、ウル、ラガシュ、ウンマニップールを支配し、彼は北方民族のセム人であって、

はじめて『世界の四方の地域の王」と自称した。

後に【四方地域の王】という言葉が何かにつけて使われるようになる。

サルゴンの後、リムシュ→マニシュトス→ナラムシンが継承する。

BC2189年~2187年  グート族が侵攻する。ナラムシン戦死 
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【ウル第三王朝】BC 2190~2005

BC2120年頃、シュメール人は、ウルクのウトヘガルを王としてグート族を追放し、

ウトヘガルは再び【四方地域の王】と称するのであるが、

この王が実は夏王朝の禹でありました。

ウトヘガルの後、ウルナンム→シュルギ→ブルシン→シュシン→イビシン
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【前期イシン王朝】BC 2017~1794

ウルのイビシンは、イシンのイシュビ・イラを軍司令官に指名したが、

イシュビ・イラは、独立してイシンの王朝をたてる。イシュビ・イラは、マリの穀物商人出身。ダゴン神(檀君)信仰。

イビシンは、エラム人に殺害される。

この時、アモル人ナプラヌムが、ラルサ王朝をたてた。
BC2000年より前に、ウル王国は、アモル人の侵略によって衰退に向かっていた。

イシュビ・イラは、抵抗してエラム人を追放し、

BC2017年に南バビロニアの支配者となり、前期イシン王朝をたてる。

☆正朔(天子が代わると暦を改めたところから)を改め正装を白衣とした→白色をトーテムとすることは後の

ユダヤ民族や源氏一族に伝わっている。源氏の語源は犬戒である。

シュイルイシュ→イディンダガン→イシュメダガン→リビトイシュタル→

ウルニヌルタ→ブルシン→リビトエンリル→イライミティ→

エンリルバニ→ザンビア→イテルビシャ→ウルドクガ→シンマギル→ダミクイリシュ
ダミクイリシュ王の時、イシン王朝は一旦滅びる。

ダミクイリシュの一族(イシンの人々)は、ラルサのリムシンに征服された

後、クシュの人々と混じながらエジプトに逃れ、ヒクソス国家をたてた後、

再びカナンの地に逃れ、その地でユダヤ人に出会った。

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【アモル第一王朝】BC 1894~1595

バビロン・アモリ王朝のシンムバリットが継ぎ、この後がハムラビであるから、

アモリ人たちは、前期イシン王朝を継承したことが分かる。


クシャトリアとは?

クシャトリアは、アラビア海から上陸したセム系のカルデア人を

中心として、その子孫に当たるコーサラのシャキイ族、ギリシア人

中国人などのインドへの侵入者である。インドに侵入して武力を

もって支配した民族は、パンジャップ・アーリアン以外は、

クシャトリアになったのである。



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